木崎原古戦場

今回紹介するのは、またまたマニアックなネタ。えびの市の「木崎原古戦場跡(県指定文化財)」です。
室町時代の初期から戦国時代にかけて、薩摩の国(鹿児島県)を本拠とする島津氏と、日向の国(宮崎県)の大部分を支配していた伊東氏は、約200年に渡って抗争を繰り返していました。1570年代になると日向の国をほぼ統一した伊東氏と、薩摩・大隅両国を手中にした島津氏との間で、いよいよ雌雄を決するべき時期が到来します。

木崎原古戦場跡の記念碑1572年、伊東家当主の義祐は、えびの市飯野地区にあった飯野城(現・亀城公園)を拠点にしていた島津忠平(のちの義弘)を孤立させるために、一族の伊東加賀守祐安、新二郎祐信などを大将に約3000名の軍勢を発し、飯野城の西に位置する加久藤城に攻めかかります。
そのとき加久藤城には川上忠智を守将とする僅か50余名の兵しかいませんでしたが、夜襲だったために伊東軍は城の様子がよく分からなかったことと、城兵の必死の抵抗の前に攻め落とすことができず、いったん退却。川内川と池島川の間にある木崎原で休息し、体制を立て直そうとします。
加久藤城の危機を知った飯野の忠平は、のろしで真幸の馬関田城(えびの市)や大口城(鹿児島県大口市)に援軍派遣を求めるとともに、50〜60名の小部隊を伏兵としていくつか一帯に配置し、自らは約150名を率いて出陣。木崎原に居た伊東軍本隊に襲いかかります。兵力差もあって油断していた伊東軍は乱戦の中で祐信をはじめ多数の兵を失い、総崩れとなります。総大将の祐安も高原城、さらに三ツ山城(小林城)をめざして逃げる途中、伏兵に打ち取られるなど大敗を喫します。
この戦いをきっかけに日向の国を席巻していた伊東氏はしだいにその力を失い、5年後の1577年に伊東義祐は国を捨て、豊後の大友宗麟を頼って落ち延びていきます。一方の島津氏は日向の国の支配を皮切りに九州各地に進出。1587年、豊臣秀吉に攻められるまで、九州の大部分を実効支配します。このため、木崎原合戦は「南九州の桶狭間の戦い」と呼ばれることもあります。
場所/えびの市池島地区(国道221号線文化センター前交差点を南へ。JR吉都線を渡ったちょっと先に、写真の石碑や、忠平が死者を弔うために建てた六地蔵塔、忠平と祐信が一騎打ちをしたと言う三角田などのある公園がありますが、場所がやや分かりづらいかもしれません)
備考/戦場となったのは木崎原だけではなく、加久藤峠から西小林に渡る広い地域のあちこちで戦闘がおこなわれました。またこのとき、伊東氏と同盟関係にあった人吉の相良氏が援軍を派遣しますが、山の上から伊東氏の劣勢をみて戦いには参加せず、引き返しています。

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『木崎原古戦場』へのコメント

  1. 名前:はっつぁん 投稿日:2008/10/24(金) 14:39:10 ID:046d294ae

    いやいや、実力を徐々に発揮ですね。
    宮崎県人の私たちも
    勉強になります。
    ありがとうございます。