義門寺

国富町役場のすぐ近くの県道26号線沿いにあり、1346年(南北朝時代)に足利尊氏の家臣で、この地に派遣された細川小四郎義門という人が建立したといわれる浄土宗の寺院です。寺内には中世時代の石塔が残っていて、そのうち8基が町の文化財に指定されています。
義門寺

細川義門は、現在の清武町加納のJR日豊線沿いにその屋敷(ぎにょもん屋敷)があったという言い伝えがあるほか、綾町にある綾城を築造した人物としても知られています(余談ですが、現在綾城跡に建っている天守風建物は、当時のものとは違います)。義門の子孫は綾の地名をとって「綾氏」を称するようになり、次第に勢力を拡大していた伊東氏の臣下に組み込まれていきます。
もうひとつ余談ですが、細川義門は伊東祐国の一族だったという説をどこかで読んだ気がするんですが、それだと時代が合わないので、間違いか別人との取り違えまたは僕自身の勘違いでしょうね(^^ゞ
さて、話を義門寺に戻しますと、この場所は戦国時代の末期、豊臣軍が島津氏を攻めた際、弟の豊臣秀長の本陣が置かれた場所だともいわれています。島津攻めでは、小倉から肥後(熊本県)を通るルートを秀吉率いる本隊が進軍し、豊後(大分県)を経て日向の国(現在の宮崎県)へと南下するルートを秀長率いる別動隊がたどるという二方面から島津領に攻め入ります。
当時の国富町には、日向の国から大隅・薩摩の国(鹿児島県)へと抜ける主要道のひとつが通っていたのも、ここに本陣がおかれた理由のひとつだと考えられます。寺の一角には当時、秀長が出した陣内での禁止事項(乱暴狼藉をしないこと。勝手に陣取りや放火をしないこと。勝手に竹や木を伐採しないこと)を書いた御触れ書きの写しが掲示されています。
秀長公禁制

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

『義門寺』へのコメント

  1. 名前:はっつぁん 投稿日:2008/12/07(日) 10:17:35 ID:e1270933d

    歴史をひも解きながら、
    地域やまちを見直すのも
    いいですね。
    町並みが違って見えてきます。

  2. 名前:はらぺこ 投稿日:2008/12/07(日) 15:24:06 ID:2dd497a06

    へえ~~ 勉強になりますねー
    歴史もひとつひとつたどっていくと
    面白いですねー
    ほんと・・町並みが違って見えてきますね~

  3. 名前:obrigado 投稿日:2008/12/07(日) 23:54:43 ID:c7ec26a86

    少々マニアックな投稿になってる感もありますが、「歴史をとおして地域のことを知る」というアプローチもありだと思います。
    もちろん、教科書に載ってるような「正史」だけではなく、昔から伝わる文物やしきたり、風俗などの「民衆の歴史」も大切ですよね。
    なにせ宮崎と言えば、岩手県遠野と並んで民俗学者・柳田国男の原点となった椎葉村もあるし(^_^)v